【重要】代理出産を事実上禁止しようとしている自民党PTに、抗議のメールを送りましょう!
自民党のプロジェクトチームが国会に提出しようとしている生殖補助医療法案は、条件付き代理出産を認めるとは言いながら、その条件というのは、子宮がないこと(子宮があって不妊という人が殆どです)、金銭の授受を認めないこと(ボランティアで代理母になる人を見つけることは不可能に近いです)で、事実上代理出産を禁止するものです。この法律は不妊に悩む人々の最後の望みを断ち切る天下の悪法になります。メディアでは、いわゆる「子供の出自を知る権利」ばかりが報じられていますが、それに誤摩化されてはいけません。現在のような内容での新法案を撤回するように、皆さんの声を結集しましょう。不妊に悩む人々の気持ちを無視した生殖補助医療法など、全く意味がないものです。手遅れになる前に、当事者である皆さん自身が意見表明をしてください。
ここをクリックすると、自民党にあなたの意見を送るページに繋がります。

※インドの情報についてのご注意

▶インド政府は2015年10月28日、外国人がインド人女性を代理母とした代理出産を利用することを禁じる方針を明らかにしました。これで「代理出産のメッカ」であったインドでの外国人向け代理出産は幕を閉じることになります。
Baby for All ではこれまで、合法的に代理出産が行える国として、インドの代理出産もこのブログでご紹介してきました。そのため、過去記事の中に、一部インドの過去の情報が残っていることがあります。ご注意ください。
また、会員専用ページの内容も、インドの情報が記載されていますので併せてご注意ください。

ラベル 代理出産体験記〜インドは我が子の故郷 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2018年9月23日日曜日

代理出産体験記〜インドは我が子の故郷(完)

 そして8ヶ月後。
 私たちは出張先のホテルで、予定日よりも早く赤ちゃんが誕生したことを知った。もちろん手を取り合って喜んだ。メールで送られてきた写真のわが子を、わが子と実感するのは難しかったが、その瞬間に、夢が昇華し、現実になったということを、否が応でも感ぜざるを得なかった。
 それから5年はあっという間だった。
 今私たちは、幸福であると宣言できる。仕事や生活が順調だということもあるが、何よりも、諦めていた自分の子供と一緒に暮らし、子供の成長を見守る喜びと責任を感じられるということがである。
 子供がいなければ、夫婦で旅行を楽しんだり、多少は贅沢な暮しをしたりすることはもっとたやすかっただろう。しかし、子供といることは、子供が欲しかった者にとっては、何物にも代えがたいものなのだ。それは、不妊治療の過程で幾度となく涙を流し、夫婦で何度も遅くまで話し合い、そして、重大な決意をした者にしかわからない喜びなのだ。
 倫理? 人権? 勝手に言っておけ。
 私たちは、人に迷惑をかけず、自分の良心に従って行動し、幸福を得たのだから。自分の倫理を守っているし、他人の人権を侵害した覚えはない。

 
 「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」(『万葉集』巻5−802 山上憶良)

 昔、学校の教科書が教えてくれた千年以上前の歌を実感しながら、今私たちは、わが子の安らかな寝顔を見つめている。
(完)

2018年9月22日土曜日

代理出産体験記〜インドは我が子の故郷(5)

 アーナンの町は平和そのものだった。ガネーシャの祭があるからなのかも知れないが、夜遅くまで人が行き交い、若い女性も一人で歩いていた。治安がよくなければそういうことはないだろう。
 治安がよい理由のひとつは、宗教的な対立がないからであることは間違いない。町の商店街の中で、イスラムの衣装を着た人が、他のインド人(ヒンドゥー教徒だろう)と一緒に、民族衣装の店を経営しているのを見たのは象徴的だった。またアーナンがあるグジャラート州は、菜食、禁酒の人が多いらしい。酒を呑む人が少なければ、トラブルも少ないだろう。
 菜食の方は、肉好きの私としては非常に心配だったが、肉を出すレストランもあったし、バターやチーズ、卵等は普通に使われるので、肉抜きのカレーというのも、それほど悪いものではなかった。
 祭りがなければ退屈な町だろう。私たちは行かなかったが、アムール乳業の工場見学ぐらいしか楽しみはない。もちろん、近隣の町へ出かければ何かあったのかも知れないが、私たちは余り外へ出かける気にはならなかった。子供のことに気持ちを集中させたかったからだ。
 外出と言えば、代理母の合宿施設は見せてもらった。こちらも、田舎の病院の入院病棟というか、サナトリウムのような感じだった。彼女たちの部屋には無造作にベッドが置かれているだけだが、娯楽室や、職業訓練のための部屋もある。そこで暮らす代理母を見た印象は、来る前に想像していた、家族と離れての寂しい生活というイメージではなく、暢気に日々を送っているという感じだった。実際、家に帰らせると、男尊女卑のインドでは、たとえ妊娠中であっても、夫や家族の世話を一手に引き受けなければならなくなるというから、のんびりしているように見えるのは当然だろう。
 私たちがインドに着いてから約2週間後、パテル医師のクリニック、つまり、田舎の診療所みたいな建物の中にある、超近代的な一室で、私たちの受精卵が作られた。
 パテル医師は受精卵の写真を見せてくれた。とても元気だということだが、信じる以外に無いだろう。私たちは最後の望みとしてここに来たのだから。 
 そして受精卵が4つ、代理母に移植された。その直後に、クリニックのベッドに横たわる代理母に会った。
 手を取り合う家内と代理母。契約書にサインした時ではなく、その瞬間に、母の仕事が委任されたのだった。
(つづく)

2018年9月21日金曜日

代理出産体験記〜インドは我が子の故郷(4)

 翌日後、私たちは、私たちの代理母に選ばれた 20代の若い女性とその夫に会った。丸顔で少し色黒の代理母は片言の英語を話した。5歳の子供がいるということだった。パテル医師のオフィスで契約書にサインをして、2組の夫婦はぎこちない笑顔を交わした。
 私たちの中で、ひとり代理母は、一瞬毅然とした表情を見せた。
 私たちがインドに行こうと決意した以上に、彼女は重大な決意をしたのだから、それは当然のことだろう。
 その晩、私たちは同じホテルに宿泊していたアメリカ人の若い夫婦と、偶然ホテルのレストランで出会った。ちょうど、アーナンはガネーシャの祭で賑わっていた。私たちは連れ立って、けばけばしい色をつけた裸電球で明るく飾られた夜の町を散歩することにした。
 ガネーシャ。
 地元の人に聞くまで、象の顔をしたその神の名前を私たちは知らなかった。しかし、神の子供だというそのガネーシャに、私たちは魅かれた。地蔵盆のように、それぞれの地区で、それぞれのガネーシャがまつられていた。また、巨大なテントの中に、地元企業が巨大なガネーシャを設置し、参拝料をとるような大がかりなものもあった。
 私たちは、できる限り多くのガネーシャを詣でることにした。神の子のご利益にあずかるために…。
 外国人であると一目でわかる私たちを見つけたある会場の主催者と思しき男性が、賽銭を上げ、祈り終わって帰りかける私たちを呼びとめた。そして、私たちの手首に、赤く太い綿糸でできたブレスレットを結んでくれた。
 「シャワーをするときも、寝る時も外してはいけない。これが自然に切れた時に、あなたの願いはかなうんだよ」
 この男は、私たちがガネーシャに願いを込めて祈ったことを知っているかのように、そう説明した。
 別の会場では、やはり私たちを見つけた主催者が、ゲストスピーカーとして来ていた女性の聖職者を私たちの所に連れて来て、家内と、そのアメリカ人の奥さんの方に、特別な祈りをささげてくれた。
 大げさな言い方だが、インド全体が私たちの願いを共有してくれている。そんな感覚に陥った。
 私たちはガネーシャに、そして、インドの人々に祝福されているのだと。
(つづく)

2018年9月20日木曜日

代理出産体験記〜インドは我が子の故郷(3)

 ヴァドーダラ空港に私たちを迎えに来ているはずのタクシーは来ていなかった。一瞬、最初からこれでは先が思いやられるなと感じたが、「あせるな、落ち着け。ここは日本じゃない。インドなんだ」と、自分に言い聞かせた。
 空港には公衆電話さえなく、ただ遅れているだけなのか、忘れているのかさえ確認できなかった。白タクに乗るかどうするかと考え始めていたら、同じ飛行機に乗っていた親切なインド人ビジネスマンが携帯電話を貸してくれた。
 タクシー運転手は私たちのことを忘れていたのだった。
 堪えられないほどではないが、朝にしては蒸し暑い日差しの中、何も無い田舎の空港の外で1時間以上待って、漸くタクシーはやって来た。その間私たちは、白タクの運転手だけでなく、好奇心旺盛な人々に殆ど取り囲まれながら、草生した夏の光景を、なぜか懐かしく感じながらぼんやり眺めていたのだった。
 インドの町で牛が闊歩しているのをテレビで見たことはあったが、それでも実際に、舗装されていない道の端を、牛が何頭もたむろし、地元の人がラクダに荷車をひかせる光景を見た時には、言葉にならない衝撃を受けた。こんな国に、こんな町に、高度な不妊治療を求めて、あるいは代理出産を求めて、世界中から人がやって来るというのは、実際にこの国に着いても、まだちょっと信じられなかった。
 病院に着いても、その気配はなかった。
 そこは、子供の頃に祖母に連れて行かれた田舎の診療所のたたずまいだった。清潔ではあるが質素で、下世話なことだが、何百万円単位でお金が動く場所には思えなかった。
 患者が私たちに好奇の視線を向ける。しかしすぐに私たちは、一般の待合室ではなく、パテル医師のオフィスに招き入れられた。
 その部屋にはエアコンがあり、パソコンがあった。一般の待合室と扉一枚隔てたこの部屋は、ある意味で別世界だった。私たち以外にも外国人の夫婦が出入りした。白人、黒人、アメリカに住むというインド人。もちろん、日本人は私たちだけだった。
 ナイナ・パテル医師のご主人のヒーテッシ・パテル医師が歓迎してくれた。コメディ映画に出て来る、残酷ではない、愛すべき悪役のような風貌だ。以下、ややこしくなるので、ナイナ・パテル医師のことをパテル医師と書くことにする。ご主人の方はヒーテッシ医師と書く。
 さて、間もなくパテル医師が現れた。白衣ではなく、テレビで見たときと同じように、鮮やかな色の民族衣装に身をまとっていた。パテル医師は笑顔を絶やすこと無く私たちに優しく語りかけた。そして家内の問診が始まったのだった。
(つづく) 

2018年9月19日水曜日

代理出産体験記〜インドは我が子の故郷(2)

 その8か月前。私たちは、藁をもすがる思いで、インド行きの飛行機に乗り込んでいた。
 代理出産。その言葉は知っていたが、自分たちには関係のない話だと思っていた。しかし、不妊治療を続けてもその甲斐はなく、年齢的なことや、家内の持病のこともあり、最後の挑戦をするかどうか逡巡していた私たちだった。そんなある日、家内がいつもインターネットで見ているアメリカのテレビ番組で、ナイナ・パテル先生が紹介されているのを偶々見たのだった。
 その後数日間、家内は自分なりにリサーチをして、大きな決心をしていた。そして、テレビで紹介されていた、そのインド人の先生に、最後の望みを託したいと、私に相談したのだった。
 それは、唐突ではあったが、私は驚かなかった。
 なぜなら、私は子供が欲しかったし、私以上に家内は子供が欲しかった。私たちは、代理出産をしてでも子供が欲しいという私たちの気持ちを、世間が言うように「わがまま」だとは思わなかった。代理出産をすれば、私たちが救われるだけでなく、インドの貧しい人たちの生活改善にも繋がる。パテル先生のプログラムは、その点がはっきりしていたからだ。
 幸いにして、私たちは自営業者で、海外に仕事で行くことが多かったし、旅には慣れている。多少英語を話すこともできる。法律のことは心配だったが、それもいろいろ調べていくうちに、日本でも代理出産が不可能でないことがわかった。規制しているのは医師の学会で、法的には全く問題ないということがわかった。
 専門的な書類の翻訳は、取引先のプロの人たちに任せることにして、とりあえず私たちは、思い切ってパテル先生を尋ねることにしたのだった。
 インド共和国グジャラート州アーナン。
 最初に見た地図には、その町の名前さえなかった。旅行会社の人間だって、たぶん知らないだろう。人をあてにせず、インターネットで行き方を確認して航空券を予約し、パテル先生にはメールで連絡を取り、多少の不安を抱えたまま、旅に出ることにした。
(つづく)

2018年9月18日火曜日

代理出産体験記〜インドは我が子の故郷(1)

 Baby for Allができるきっかけになったのは、あるご夫婦の決心からでした。今回、そのご主人から、手記を送っていただきました。
★   ★   ★
2009年×月×日、日が変わって数時間後、飛行機は私たち夫婦を2度目のムンバイ国際空港へおろした。去年ここに来たときも工事中だったが、その工事は幾ばくか進展し、免税店などもかたちになってきていた。深夜にも関わらず、人の数は多い。荷物を受け取ったらすぐに国内線のターミナルへ連絡バスで向かった。殆ど何もない出発ロビーで時間をつぶすのも、2度目なので戸惑いはない。
 はやる気持ちを抑えようと思うが、全く落ち着かない。大きめのスーツケースの中には、自分たちのものは抑えられるだけ抑え、紙おむつを詰めるだけ詰めていた。送られて来た我が子の写真を幾度となく眺めてはしまう。そんなことを繰り返し、白々と夜があけるのを待った。
 午前5時、国内線の出発ゲートに入った。大方はビジネス客とおぼしきインド人の旅行客に混じると、私たち日本人の夫婦はよく目立った。旅慣れた人の中にいるので、好奇の視線を感じることはなかったが、コーヒーを飲んでも、無料で配られている英字新聞に目を通しても、何をしても出発までの数時間を、落ち着いて過ごすことはできなかった。漸く待ちわびた我が子に会える。その喜びと、期待と、不安を、この雑沓の中で解消することは無理だった。
 午前6時過ぎ、やっと国内線の飛行機に乗り込んだ。機内食を食べる間もなく、1時間ほどでヴァドーダラ空港に到着。予約しておいたタクシーに乗り込み、約1時間。初めて見た時には驚きの連続で、カメラのシャッターをずっと切っていたアーナンへの道のりも、ただ過ぎ行く見慣れた景色になった。
 ここは、今や、我が子のふるさとになったのだ。
 8時半、病院に到着した。懐かしい代理母は、私たちの小さな我が子の世話をしていた。
 言葉は必要なかった。黙って差し出されたその我が子を、私たちは心からいとおしく、そっと抱きしめた。そして、私たちのためにこの子を産んでくれた代理母と抱擁して、“Thank you”という単純な言葉だけで感謝を表した。それ以外の言葉は浮かばなかったし、言う必要もなかった。
 そこで代理母は、初めてほっとした表情を見せた。そして、彼女の夫が、その傍らで
優しく微笑んでいた。
 一児の親であるこの代理母夫妻は、先輩として、身振り手振りで私たちに赤ちゃんのあやしかた、世話の仕方、おむつの換え方を教えてくれた。笑顔しかそこには無かった。
 私たちと代理母夫妻、2組の父と母が、この新しい命の誕生を心から喜んでいた。
(つづく)