【重要】代理出産を事実上禁止しようとしている自民党PTに、抗議のメールを送りましょう!
自民党のプロジェクトチームが国会に提出しようとしている生殖補助医療法案は、条件付き代理出産を認めるとは言いながら、その条件というのは、子宮がないこと(子宮があって不妊という人が殆どです)、金銭の授受を認めないこと(ボランティアで代理母になる人を見つけることは不可能に近いです)で、事実上代理出産を禁止するものです。この法律は不妊に悩む人々の最後の望みを断ち切る天下の悪法になります。メディアでは、いわゆる「子供の出自を知る権利」ばかりが報じられていますが、それに誤摩化されてはいけません。現在のような内容での新法案を撤回するように、皆さんの声を結集しましょう。不妊に悩む人々の気持ちを無視した生殖補助医療法など、全く意味がないものです。手遅れになる前に、当事者である皆さん自身が意見表明をしてください。
ここをクリックすると、自民党にあなたの意見を送るページに繋がります。

※インドの情報についてのご注意

▶インド政府は2015年10月28日、外国人がインド人女性を代理母とした代理出産を利用することを禁じる方針を明らかにしました。これで「代理出産のメッカ」であったインドでの外国人向け代理出産は幕を閉じることになります。
Baby for All ではこれまで、合法的に代理出産が行える国として、インドの代理出産もこのブログでご紹介してきました。そのため、過去記事の中に、一部インドの過去の情報が残っていることがあります。ご注意ください。
また、会員専用ページの内容も、インドの情報が記載されていますので併せてご注意ください。

2018年10月16日火曜日

不妊治療の先にあるのは…あなたの選択です!

2014年5月に掲載された
『産經新聞』の「人生の楽譜」からです

過酷な不妊治療で擦り減る「心」…大切なものはどこにある

この中で、長年の不妊治療を通じてでも
最後まで自分の子供に恵まれなかった
2組の夫婦の話が登場します
そのうちの1組は養子をとるという道を選びました
(引用部分は青字です)

あのまま治療を続けていたら、私たちはぼろぼろになっていたはず。幸いなことに、私たちは娘との幸せな道を選ぶことができた

不妊治療が肉体的にも精神的にも
かなり過酷なものであることは
経験した人でないとわからないでしょう
だからこそ、不妊治療経験者や
赤ちゃんがほしくて仕方がない人の意見を全く考えない
自民党PTの生殖補助医療法案にBaby for Allは反対しています

不妊治療が限界に来た時
あなたは、諦められますか?
養子縁組を考えますか?

それは、夫婦が最後に決めることであって
他人がとやかく言うことではありません
子供がいなくても幸せな夫婦はいます
しかし、子供がいなければ
どうしても心が満たされない人もいます
それを批判することは
誰にもできません

代理出産は選択肢の一つです
全ての不妊に悩む人が
それを選ぶ訳ではありません
しかし、医療技術的に可能なことであれば
それを医師が提供しないのは
納得ができません

繰り返します

Baby for Allは生殖補助医療法案が現状のままで国会に提出されないこと
提出されるならば廃案になることを期待します
あんなものができるぐらいならば
多少不自由でも
合法的に代理出産ができる現状の方が
まだ、ましです

以下、産経新聞からの全文の引用です
2014.5.6 07:00
【人生の楽譜(8)完】過酷な不妊治療で擦り減る「心」…大切なものはどこにある

 わが子の誕生を切望する夫婦。だが、願いがかなわないケースも少なくない。不妊治療を断念した夫婦の中には「第2の道」を歩む人もいる。
 横浜市内の住宅街にある一軒家。屋内で、数人の幼い子供たちが駆け回っている。この家で「どりいむ保育園」を営む割田修平(53)、節子(58)夫妻が、無邪気な姿に目を細めた。夫妻は平成15年、4年半にわたる不妊治療に終止符を打ち、22年に同園を開設した。
 節子さんは22歳のときに一度結婚したが、当初から夫の暴力に悩まされた。我慢を重ねたが、10年余りたったある日、夫に首を絞められて意識を失いかけ、身の危険を感じて家を出た。

不妊治療、断念…助産師、カウンセラーとして
 住み込みの家政婦などをしながら、夫から身を隠す日々。5年ほど続いたとき修平さんと出会った。2人は気持ちを通じ合わせ、節子さんの離婚が成立した翌年の平成11年に結ばれた。
 「人生をやり直してみようと思わせてくれた彼の子がほしい」。しかし、節子さんはすでに42歳。不妊治療に取り組んだが、妊娠の兆候はなかった。
 節子さんは当時、助産師として毎日新しい命を取り上げる現場にいたが、「お母さんにかける『おめでとう』という言葉は、口先だけだった」。中絶はもっと気持ちを複雑にした。
 14年6月、ぜんそくの発作に苦しんでいた修平さんが倒れたことをきっかけに心に変化が起きた。「この人の存在がなければ私や子供の存在は意味がない。大切なものはすぐそばにあったのに、見失っていた」
 不妊治療を断念した2人は、不妊カウンセラーの資格を取り、同じ悩みをもつ夫婦の相談に乗ってきた。節子さんは助産師として子育て指導も行い、その延長線上で保育園を開設。子供たちとの新たな関わりを持つことができた。
 「保育園の子供たちは自分の子ではないけど、成長をみられることが幸せ」と修平さん。節子さんは「夫婦が互いに向き合い、認め合えたら、たとえ残念な結果でも受け入れることはできる」と語った。

「何も残せない訳じゃない」
 「40歳になる来年で、区切りをつけようと思っています」。東京都の北林京子さん(39)=仮名=は、里親や養子縁組といった可能性も視野に入れ始めている。
 結婚2年目、30歳のときに不妊治療を始めた。「子供がいない家庭は未完成だ」という意識があった。
 治療を進める中で、夫婦仲が冷え込んだ時期もあった。流産、死産を経験し、心身とも傷ついた。それでも子供がほしかったのは、小学生のときに両親が離婚し、「ご飯の作り方とか、母親に家庭的なことを教えてもらいたかった」という思いが強かったからだ。
 しかし、数年前に近くの乳児院で幼子の世話をするボランティアを始めてから、次第に考えが変わった。「血のつながりはなくても、子供に物事を教えることはできる。自分の子供ができなくても、何も残せない訳じゃない」

さまざまな家族の形態
 大阪府の岡村賢さん(50)、敬子さん(50)夫妻=ともに仮名=は16年前、生後8カ月だった長女の千絵さん=仮名=を養子に迎え入れた。千絵さんは、間もなく高校2年生になろうとしている。
 岡村さん夫妻も不妊治療に取り組んでいたが、医師から可能性がないことを暗に示唆された。それでも2人は、子供がほしかった。
 おもちゃのガラガラを土産に、2人が施設で初めて千絵さんと面会したのは平成9年12月。大みそかに自宅に引き取り、家族3人で新しい年を迎えた。「笑顔がかわいくて…」。当時を振り返るとき、いまだに涙があふれる。夫婦は今、千絵さんのおかげで親になる喜びを与えてもらい、娘の成長とともに多くのことを学んでいると感じている。
 晩産化とともに、不妊治療の技術は日進月歩で進んでいる。しかし、治療は必ずしも実を結ぶわけではない。その先に、何を見据えるのか。さまざまな夫婦に、さまざまな生き方の形がある。
 「あのまま治療を続けていたら、私たちはぼろぼろになっていたはず。幸いなことに、私たちは娘との幸せな道を選ぶことができた」。賢さんが見つめた携帯電話の画面。千絵さんが優しい笑顔を向けていた。
    ◇
 梶原紀尚、池田祥子、木ノ下めぐみ、広瀬一雄が担当しました。